
1830年頃、わずかな夜の明かりを得るためには、約3時間の労働が必要でした。しかし1992年ごろにはそれが1秒にも満たない労働ですむようになったと言われています。ロウソクから白熱電球、蛍光灯へという技術的発展が、光を劇的に安くしたのです。
そうして光が安くなったとき、人は同じ量の光を単に安く買って終わり――ということにはなりませんでした。
人々は、かつて置こうとも思わなかった場所にまで光を置き、街路、工場、看板といった、社会のあらゆる場所に安くなった光を敷き詰めていきました。そうして、工場は曇りや雨の日にも稼働することができるようになったり、深夜営業や夜の読書といった新しい活動が可能になったのです。
そこで儲けたのは、光を提供した会社だけではなく、それをうまく使った会社でした。

では、ソフトウェアや知能が安くなったとき、私たちはそれをどのように使うのでしょうか。
生成AIによる大きな変化は、まさにその問いを私たちに問うているのではないかと思います。
何が安くなっているのか
AIの発展によって、特定の種類の知的作業や、ソフトウェアをつくるための費用が急速に下がりつつあります。Stanford HAI 2025 AI Index でも、GPT-3.5級の性能の推論コストがこの18か月で280倍以上安くなったと整理されています。

そのAIは今、ソフトウェア開発で最も活用され始めています。ソフトウェアの価格が下がることが見込まれ、一部の SaaS 企業の評価にも影響が出ている状況です(もっとも、金利環境の変化やマルチプルの正常化など複合的な要因があり、AIだけのせいというわけではありません)。
実際は、運用、品質保証、導入、責任の所在などを考えると、「ソフトウェアのすべてのコストが下がっている」というわけではありませんが、それでも、ソフトウェア開発の初期コストや、一部の調査・検証のコストは劇的に下がってきています。
今回の人工知能の発展が、今後どのレベルに達するかは分かりません。しかし少なくとも現在のレベルの人工知能であっても、ソフトウェア開発のコストや一部の調査のコストは劇的に下がるであろうということはほぼ間違いないでしょう。
であれば、「ソフトウェアや知能が安くなったとき、何が起こるのか」を考えることは、今後のビジネスにおいてもとても示唆を与えてくれる問いのように思います。
安くなると、裾野が広がる
そのときに参考になるのが、過去の技術の歴史です。
たとえば冒頭の照明の例を見てみましょう。
1800年から2000年のあいだに照明の実質価格が大きく下がった結果、それに伴って総消費量は大きく増えました。人々は「同じ明かりを安く買った」のではなく、それまで明かりが置かれていなかった場所にまで、明かりを広げていったのです。

このアナロジーをそのままソフトウェアに当てはめることはできませんが、それでもおそらく似たような構造的な変化は起こっていくでしょう。価格が下がると、人は同じものを安く使うだけでなく、これまでコスト的に見合わなかった場所で使い始める、ということです。
たとえば私自身も授業でAIを使ったアプリを開発しています。1コマの授業のために、アプリを作るというのも十分コスト的に可能になったからです。
非営利領域でのソフトウェア開発の普及活動 (Non-Profit Startup や東大ソーシャルテックプログラム なども、「これまでならエンジニアが必要だった課題が、今なら解けるかもしれない」といった発想から始めた活動の例です。
これまでは「わざわざ作るほどではない」「ビジネスとして成立しない」とされていた活動が、ソフトウェアや知能が安くなった結果、もしかすると成立し始めているかもしれない、ということです。
そうした例を見ていると、問うべきなのは、「AIで既存の仕事をどれだけ安くできるか」だけではなく、むしろ「安いソフトウェアや知能によって、これまでソフトウェア化されていなかった領域の、どんな問題が新たに解けるようになるのか」のほうではないかと思っています。
価値はどこに残るのか
しばらくの間は、そうしたソフトウェアや知能によって新しく解決できる問題に需要が生まれてくるでしょう。
しかし、そうしたソフトウェアの新しい問題空間への進出は、必ずしもソフトウェアによる大きなビジネスになるとは限りません。もともとは利益が出づらいから残っていた課題もあるでしょうし、ソフトウェアが簡単になるにつれて、価値は相対的に落ちてくるからです。
その結果、起こるのは、価値の生まれる場所の移動です。
価値は、流れの中で詰まっている場所を解消するところに生まれます。これまでソフトウェアは、情報処理や意思決定の正確さや速度というビジネス上のボトルネックを解いてきたからこそ、大きな価値を生んできました。しかし、もしソフトウェアや一定の知能が十分に安く豊富になるなら、ボトルネックは別の場所へ移っていきます。

それはたとえば、現場への導入、責任の引き受け、品質保証、規制対応、固有のデータ、業務フローへの統合、そして物理世界での実装です。
実際、AIの文脈では、ボトルネックはGPU、データセンターの変圧器、電力や水、系統接続の順番待ち(規制)へと移りつつあります。これまでのAIは、豊富な物理的資源の上に成り立ってきましたが、物理的な制約がボトルネックになりつつあります。
つまり、価値はソフトウェア単体から、それを現実に機能させるためのものへと寄っていくのではないか、ということです。
補完的イノベーション
この議論は『未来を実装する』などでも引用した「補完的イノベーション」の話と接続できます。
電気や電気モーターによる生産性の向上が、電気そのものだけではなく、電気モーターによって可能になった工場での工作機械の配置というイノベーションなどから来たと言われています。

汎用技術(GPT: General Purpose Technology)は単体の発明そのもので価値を生むのではなく、まわりに生まれる補完的発明、組織再設計、人材、ガバナンスといった補完的な機能から生まれてきます。
現在のAIも同様でしょう。皆が同じモデルにアクセスできる現状においても、そこから実際に成果を出せるかどうかは、プロンプトやワークフローといったものをどう設計するかや、どの業務に組み込むか、どの品質水準で運用するかといった補完的なものによって、その価値は大きく変わっています。
そして、技術の性能やコストは非線形に変わっていく一方で、組織や制度といった補完的な仕組みは線形にしか変わりません。このギャップがあるからこそ、補完的イノベーションを適切に起こせた側に大きな優位が生まれます。

「AI-nativeな企業」というののもこの枠組みで理解できます。
この文脈で行くと、AI-nativeな企業とは、AIに対する補完的な仕組みの束を持つ企業のことです。工場での電気モーターの配置の遍在が生産性の向上につながったように、ソフトウェアや知能を遍在させることが可能になることで、新しい仕組みや制度を実現できた組織こそ、AIの恩恵を受けられるということなのだろうと思います。
(ただし、そのインフラを使える限りにおいては、です。今後の国際政治の状況如何によって、ミドルパワーの国々がAIへのアクセスは限定されるかもしれないので、注記しておきます。)

ディープテックはその典型かもしれない
そう考えると、面白いのはディープテックのような領域です。
まず直近、生成AIを使うことで、ディープテック事業に使う技術について、一部の検証がかなり早くなりました(特に最初期のフェルミ推定レベルの検証や簡単な技術経済性分析など)。これまで専門家を見つけてお願いしていたような作業が、わずか数時間で結果が返ってくるようになったのです。これはディープテック・スタートアップを目指す際の初期フェーズの壁を大きく下げる変化だと言えます。

さらに AI for Science がうまく軌道に乗りはじめれば、より多くの科学的発見が見つかっていくでしょう。そうなれば、その発見の一部を商用化していくところにボトルネックが起こっていくことになります。
また、AI-native な組織になって生産性が大幅に向上するのは、ソフトウェア企業ではなく、ソフトウェア以外の業種の可能性が高いように思います。なぜならソフトウェア企業にはすでに多くのソフトウェアが入っていますが、そうでない企業はこれから入っていくため、改善の余地が大きいからです。

こうしたソフトウェア以外の業種のビジネスを AI-native にしながら、実際に社会に実装するには、実験設備、製造、規制、安全性といった、依然として重い作業をこなしていかなければなりません。しかし価値は実装の難しい場所に残りますし、それはMoatにもなりやすいとも言えます。
フルスタック・ディープテック・スタートアップやリサーチ以外が重要なディープテックにも期待できるのは、こうした文脈もあるからです。
まとめ

今起きていることは特定の知的作業とソフトウェア生成の費用が急速に下がっている、ということです。その結果、ソフトウェアは、これまで採算が合わなかった問題にまで広がっていくでしょう。照明が暗い場所にまで広がったように、ソフトウェアや知能もまた、これまで届かなかった問題空間へと敷き詰められていくのだと思います。
だから問うべきなのは、AIで何を自動化できるかではなく、安いソフトウェアや知能によって、どの問題が新たにソフトウェアで解決可能になり、そのとき何が起きて、何が新しい希少性になるのか、です。
短期的には、AIそのものや、AIを活用したソフトウェアの需要は高まるでしょう。しかしその先を見たとき、おそらくそれら以上に、もっと他の場所から価値が生まれてくるのではないかと思います。
そのとき、物理世界のボトルネックを取りに行くディープテックは、その最も大きな機会の一つです。そうした意味でも、もっと多くの人が、AIやソフトウェアを使ったディープテックの領域に目を向けてほしいと思っています。
本当に調査しやすくなっているので、興味を持ってくれた人がいれば、ぜひディープテック領域も見てみてください。
お知らせ
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