🐴 (馬)

Takaaki Umada / 馬田隆明

ランダムの力 ― 民主主義・科学・社会実装

皆さんがアートに興味を持って、何かを買おうと思ったとします。アートには絵もあれば彫刻や音楽もあります。最初は自分の興味すら分かりません。どれも良く見えますし、悪くも見えます。アートに詳しい友人らに相談してコメントをもらったりレビューしてもらっても、様々な評価軸で評価を返してくるので評価が一定しません。

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一つ一つはそれなりの値段がしますし、場所も取るので、1年に2, 3個買うのが限度です。そこで様々なものを比較しながら慎重に選ぼうとします。でも次第に選ぶのに疲れて「もういいや」となって、買うのをやめてしまうかもしれません。

そんなとき、「とりあえずランダムに選んでみる」ことが一つの最適な方法かもしれない、というのが今回の話です。

ランダム選択の導入が一つの手段として検討・実行され始めています。

 

科学の助成金をランダムに配分する(不確実性への投資)

ランダムを研究で活用することはRCT(ランダム化比較試験)が知られていますが、今回はそれ以外の領域、特に助成金の配分について「ランダムファンディング (random funding)」や「くじ引きファンディング (lottery funding)」と呼ばれる配分方法が試行的に始まっています。

課題

研究にはお金が必要です。研究者はお金を得るために様々な助成金に対して、研究したい内容を提案します。国はその中から良さそうなものに助成金を付けなければなりません。通常は学者同士のピアレビューが行われて助成金の行き先を決めますが、しかし特に基礎科学では、いったいどの研究が当たるのか、専門家でも十分に予測できない傾向があります。

たとえば mRNA ワクチンのもととなったカタリン・カリコ(Katalin Karikó)博士の2005年の研究は、当初注目をそれほど集めなかったそうです。実際、カリコ博士のいたペンシルベニア大学は2010年に関連する特許を売却し、その後博士は大学の研究室を借りる費用も賄えなくなりました(そこでビオンテックに移りました)。その研究がmRNAワクチンという大きな成果につながるとは、当時予想できなかったのでしょう。

ペンシルベニア大学が悪いわけではありません。不確実性の高い領域では、どの選択肢が本当に有望かは分からないものです。かのニュートンですら、物理学と同じぐらいかそれ以上に錬金術と神学を有望だと見積もっていたようです*1。

特に新規性の高いアイデアは否定されがちで、助成金がつかないことが指摘されています。また評価者は、自分の専門に近い領域での新規性が高い提案ほど低いスコアをつける傾向があるようです。こうしたバイアスにより、その領域での新規のアイデアは不当に低く評価されてしまうこともあります。たとえば思弁的な論述が中心だった学術領域で、計量的な研究を持ち込もうとすると上の世代から反発が出たという話も聞きます。

Max Planck は「新しい科学的真理は、反対者を説得して光を当てさせることで勝利するのではなく、反対者がやがて死に、それに精通した新しい世代が育つことで勝利する」と述べたようです。つまり世代交代です。もし本当に世代が変わるのを待つしかないのだとすれば、長寿化によって世代交代までの期間が長くなりつつある今、新しいアイデアがシステム的に出てきづらくなってしまっているのかもしれません。

助成金を付ける投資側も、失敗しそうなものにお金を付ける勇気はありません。そうすると、現状の延長線上にある研究にばかり投資されてしまい、研究領域の裾野が広がらず、本当に有望なアイデアが埋もれてしまうことがあります。

さらに選定過程にはジェンダーやマイノリティに関連するバイアスも入り込みます。女性研究者やマイノリティの研究者は資金を受けづらい傾向にあり、イギリスでは工学と物理の助成金のおおよそ90%が男性リードのプロジェクトに付与されたそうです。

解決策

こうしたシステミックバイアスに対する方法として「ランダムに選んでみる」という代替手段を提供するのがランダムファンディングです。

ニュージーランドでは2013年から「探索助成金 (explorer grant)」というプログラムを作り、ランダムに助成金を提供しているそうです。一件当たりの金額はNZ$150,000 (1,200万円) と少額であり、累計は助成金全体の2%程度の資金にあたります。

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応募数

パネルで不適格と判断されたもの

ランダムで助成されなかったもの

ランダムで助成されたもの

2013

116

99

14

3

2014

24

18

2

4

2015

45

38

3

4

2016

38

29

0

9

2017

34

21

2

11

2018

60

50

0

10

2019

77

53

9

15

合計

394

308

30

56

表は The acceptability of using a lottery to allocate research funding: a survey of applicants | Research Integrity and Peer Review から

 

ただし単に少額なものを多数ランダムに出しているわけではありません。応募の条件は「革新的であり既存の理解に変革を起こすようなものであること」です。つまり、大きなリターンが小さな確率で狙えるかもしれない提案にお金を出す、という条件で資金をつけています。既存の研究の漸進的な改善にお金を付けているわけではなく、「跳ねるかもしれない」ものが潰されないように資金を提供しているのです。

これはシードラウンドのベンチャーキャピタルによるスタートアップの投資のようなものです。またタレブがブラックスワンや反脆弱性などで提唱した Convex Tinkering の実践とも言えます。「可能性は低いけれど、当たれば大きい」という条件で賭けることで、未来のノーベル賞候補になるかもしれないアイデアに資金を付けて実験をさせてみることができます。

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『反脆弱性(上)』より

さらにこうしたランダムファンディングはジェンダー平等や多様性につながることも示唆されています。ランダムに選ばれるのであれば、助成金は応募の多様性がそのまま反映されて付与されます。女性だからといって、不当に低く評価されることはなくなります。

また少額のランダムファンディングの話とは別に、「少額の助成金を多く出す方がコストパフォーマンスは良さそうだ」という調査結果があります。カナダの過去の科学助成金を調べた研究によれば「研究のインパクトは資金の量と正の関係にあるが、弱い関係しかない」という結果になっています。つまり、1ドルあたりのインパクトは大規模な助成金ほど低くなるということです。逆に言えば、大きな助成金を少数に出すよりも、少数の助成金を多くに出すほうが全体として成果が良い、とも言えます。

ただ少額の助成を多数にしようとすると、その分評価や選別のコストがかかります。そこでランダムな選択が活用できます。

ランダムに選べば、評価にかかる時間が効率化されます。特に効率化されるのは、中間ぐらいの評価の案件を採択するかどうかです。おおよそ審査においては、上位層と下位層はすぐに評価がつきますが、中間層のレベルの申請が甲乙つけがたく、それでも採択数に限りがあるためきちんと順位付けをしなければなりません。そこで下位層を足切りして、中間のものをランダムに選ぶのであれば評価にかかる時間は抑えられます。

さらにランダムに選ばれるのであれば、申請書もある程度の品質さえ整っていれば良い、ということになり、申請書の質を上げるための手間もそこまでかからなくなることが想定されています*2。日本の科学者は申請書を書くために忙殺されていることが方々で指摘されていますが、そうした申請にかかる時間やコストも抑えられるようになります。ちなみにオーストラリアだと、1年の助成金申請の書類準備などのために、研究者全体では180年に相当する時間を使っているそうです。

Talent vs Luckという論文ではランダムに配分することのシミュレーションを行っています。その結果は、すべての研究者に均等に助成金を配分することが最もパフォーマンスが良く、次に10%をランダムに、その次に20%をランダムに配分することがパフォーマンスが良いというものでした(解説記事)。

まとめると、時間を削減でき、バイアスを取り除いて多様性を確保することができて、新しいアイデアにも機会を提供できる、というのがランダムファンディングのメリットです。

実行性

実際にランダムで助成金を出した効果も測られています。Nestaでは組織内の補助金を、選考からランダムに変えて実施してみました。すると、女性のプロジェクトの採択数が増え、多様性が増しました。

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単に女性が選ばれただけではなく、従来はレポートだけだった取り組みが、ビデオやプロトタイプなどを含んだ新しい方法で試され始めたという結果にもなりました。

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では実際にランダムで受ける科学者たちはこの方式をどのように感じているのでしょうか。ニュージーランドの研究者たちがどのようにこの探索助成金でのランダムファンディングを感じているか、というアンケートの結果では、賛成が63%、反対が25%でした。他の助成金についてランダムファンディングをする場合は賛成が40%、反対が37%と、賛成は減りましたが拮抗しています。つまりランダムファンディングにそれほど反対意見が強いというわけではありません。

こうした流れを受けて、ランダムファンディングの取り組みはスイスも始めようとしています。

もちろん純然たるランダムでは科学的に不可能な提案や非科学的な提案にも資金を付けることにもなりかねません。最低限の質を担保するために、足切りをする必要はあるでしょう。それにすべての資金をランダムにつけるべきだとは思いません。大型のものや、ある程度分かっている領域については既存のPeer-reviewの形式のほうが良いかもしれません。

しかし跳ねるかもしれない初期のフェーズの試みに対して、少額の資金を投資することがコストパフォーマンスの良い投資方法であり、ランダム性を取り入れることで見逃していたかもしれない良いアイデアに光を当てることは可能かもしれません。そして研究の裾野を広げることは、最終的に科学全体の利益にもなりえます。

 

社会実装の助成金をランダムに配分する(不確実性への投資)

社会実装を考えるときにも似たようなことが言えます。

特に社会実装の初期のフェーズは、顧客のニーズという大きな不確実性があります。そのため科学と同じくランダムファンディングに近い形のファンディングが有効ではないかと思います。どれが当たるかは誰にもわからないからです。

VCの投資も多様性の問題を抱えています。たとえば現在のピッチのプロセスだと女性は評価されません。トレンドのテーマにばかり投資が行く傾向もあるでしょう。

また自分の専門に近い領域での新規性の高い提案ほど低いスコアをつける傾向がある、という科学の傾向はVCなどでも見られると感じており、競合製品があるようなアイデアは低く評価され、逆に若者向けのサービスなど、VCがあまり詳しくない領域は良く知らないので相対的に高く評価されるような印象があります(特に学生向けコンテストなどで)。

VCは資金をLPに返さなければいけないので慎重に選ぶのは仕方がないかもしれません。であれば国が超初期のフェーズ(数百万円程度)に投資リスクを負い、投資手法にランダム性を交えることも一つの手ではないかと思います。その結果、成功するスタートアップの絶対数が増え、スタートアップやVCがちゃんと税金を納めてくれれば投資に見合うだけのリターンが得られるはずです。

もちろん質的な部分での足切りは重要です。そのためにも、ランダムファンディングとトレーニングと組み合わせることもできます。USならI-Corps、UKならICUR-eといった形*3で提供されている顧客開発トレーニングと組み合わせて、そのトレーニングを受けた後に助成をするなどをすれば最低限の質保証もできるかもしれません。I-Corpsについてはその効果の研究も進んでおり、特に仮説数と顧客インタビュー数に注目したトレーニングが有効だと考えます。

さらにこうしたトレーニングを付帯させることは、ダメなアイデアを早期に諦めさせることにもつながります。ダメなアイデアを早く諦めることは、失敗率こそ上げますが、全体の試行回数を増やすことでエコシステム全体のパフォーマンスを上げることにもつながりえます。

 

ビジネスにランダム性を活かす

ランダム性はビジネスでも有効だという結果もあります。

一つは投資の文脈です。代表的な四つの投資戦略をした場合と、まったくランダムな投資をした場合をシミュレーションで比較した研究では、特定のタイミングを除いて、基本的にはランダムで選んだほうがボラティリティは少なく、パフォーマンスも良い結果となりました。つまり個人にとっては、高いコンサルフィーを払って選んでもらうよりも、ランダムに選んだ方が楽だしリスクも低くなる、という結果です。

ランダムは組織でも活用できるかもしれないと言われています。「ある人材はその組織内で昇進できる限界点に達する。人は昇進を続けてやがて無能になる」というピーターの法則が知られていますが、その限界を乗り越えるために、(1)最良のメンバーを昇進させる戦略、(2)最悪のメンバーを昇進させる戦略、(3)ランダムに昇進させる戦略をシミュレーションしたところ、「昇進者をランダムに選んだほうが組織全体としてパフォーマンスが良くなる」という結果となりました。この研究は2010年にイグノーベル賞を受賞しています。

コンピュータサイエンスにおける最適化の問題においても、焼きなまし法がランダム性を取り入れている例です。最初はランダムに取ってみて、そこから徐々に絞っていくことで最も良い選択ができる(ときには改悪もされる場合も認める)、というアルゴリズムです。その分コストは余計にかかりますが、局所最適化に陥る可能性が少なくなります。

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hill_Climbing_with_Simulated_Annealing.gif

総じてみてみると、不確実性が高く将来が見通せないときほど、ランダムに選ぶことや偶然性に身を任せることが私たちを良い方向へと向かわせてくれる、と言えるかもしれません。

 

その他の議論:民主主義でランダムな市民に参加してもらう(公正性)

ランダムにファンディングすれば、ジェンダーやマイノリティへのバイアスにも対応できるという話をしました。

実は古代ギリシャや古代ローマでは、統治者の選出にくじ引きが用いられていたことが知られています。有名なのはアテネ (2, 3) のアルコンです。評議会や行政担当者の多くも市民から抽選で選ばれていました。

抽選の背景にある考えとしては、特定の役職を長く続けることが不正や腐敗の原因となると考えられたことが挙げられます。ランダムに選ぶことで、そうした不正などを避けられると考えられました。

その後抽選制はいったん鳴りを潜め、近代では代議制民主主義(議会制民主主義)が各国で導入されていきます。ただこれは代議制民主主義が良かったというわけではなく、貴族が民主化を嫌い、自分たちの支配を正当化するためだった、という説もあります。代議員として貴族が「民主的」に選挙で選ばれた場合、地位を正当化できるからです。

時代は変わり、現代に目を移します。現在、EUを中心にランダムを取り入れた熟議の在り方が実践されています。たとえば公募もしくはランダムに選ばれた市民が討議するコンセンサス会議や市民会議などがその一例です。コンセンサス会議では、公募もしくはランダムに選ばれた市民に対して専門家が情報を提供した後に、市民に討議してもらいます。そうすることで、完ぺきとは言えないにしても、民意を政治により反映できると考えられています。

その背景として、市民の声が代議制だとうまく反映されない、という苛立ちがあるようです。実際、現代の社会においては、熟議するべき問題はより多く、複雑になってきています。あまりにも多くて複雑なので、すべての問題をきちんと考えることはできません。そして「熟考する時間がないので、人によっては候補者の髪型が好きかどうかでリーダーを選んでいる」という面もあるでしょう。

一方、そうして選ばれた代議士は「市民に一任された」と思って自分の意見を通すものの、実は熟考の末に選ばれているわけではないので、市民の声を反映した活動をしているわけではなく、代議士と市民の間に認識のギャップが生まれていきます。

これでは代議制民主主義はうまくいきません。それに既存の権力構造が温存されてしまいます。日本だと中高年男性のための国会となるようなものです。そうすると「我々の代表が我々を代表してはいない」という状況が起こります。声は届きづらくなり、政治への失望が広がり、市民はさらに政治や熟議に参加しなくなり、政治と市民の距離がさらに離れ、代議制民主主義が機能しなくなります。

そこで熟議に関わる人たちの選出の方法として、ランダムに人を選ぶことで母集団が反映された声を集める、ということが広く試され始めているようです。これはデモクラシーではなくロトクラシー (lottocracy、くじ引き民主主義) とも呼ばれます。

単にランダムに集めて多数決などで決めるのではなく、そこで討議をして結論を導くことが重要です。日本でも、脱炭素社会のあるべき姿をくじで選ばれた市民が討議する『気候市民会議さっぽろ』を札幌市では行っています。

日本でも2009年に始まった司法での裁判員制度が、立法や行政においても活用されつつある、というわけです。

 

まとめ

投資におけるランダムの有用さは、ブラックスワンで有名なタレブなども『反脆弱性』の中で述べています。私たちはランダムや変動を恐れるがあまり安定を好みます。しかし安定は特定の前提での安定です。その前提が崩れたときには一気に脆さを露呈します。逆に変化を許容する脆さを持つことで系としては安定する、というのが『反脆弱性』で語られている一つのことです。

日本がこの数十年、科学技術の分野で力を失ってきた背景には、失敗しないように「成功しそうなプロジェクト」にお金をつけすぎるがゆえに、つまりリスクを避けるがゆえに、失敗する可能性は高いが超成功するかもしれないものには投資ができなかったという部分もあるのではないかと思います。リスクテイクをしないがゆえに全体として脆弱になる、ということです。

とはいえ当然、ランダムな選択がすべて解決するわけではありません。そこには慎重な設計が必要です。アテネのアルコンも、抽選制になった後には実権を徐々に失い、代わりに直接選挙で選ばれた将軍が力を持ち始めたという説があります。日本で2009年から始まった裁判員制度も一定の効果は認められるものの、まだ問題も多数残っています。制度は最初から完璧なものでもなく、入れてすぐに効果が出てくるようなものでもありません。常に改善が必要です。

ただランダムに選ぶことで、より多くの人に機会を与え、そして本当に跳ねるかもしれないアイデアを見つけられる可能性が高まるのであれば、一つの方法として考えてみても良いのかもしれません。

 

ちなみにより多くの人に機会を与えて「少額のものを多く採択する」ための、もっとも単純な方法は「予算総額を多くする」ことです。実際、EUは2014 – 2020 年に行われたHorizon 2020 では€60 billion、2021-2027年のHorizon Europe は €100 billionの予算を付けているので、単純計算で67%の増額をしているようです。それに加えてランダムファンディングのような形で新しい種を見つけようとしていて、興味深い動きをしていると思っています。

 

*1:「ニュートンの死後残された蔵書1,624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16パーセントであるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32パーセント」との記述から

*2:とはいえ、ランダムになってもさほど応募資料にかける時間は変わらないというアンケート結果もあります

*3:平成30年度産業技術調査事業 国内外の産業技術をめぐる動向の調査などが詳しいです

「売上100億円」という基準でスタートアップのアイデアの良し悪しを見分ける

「スタートアップを目指すにしては市場が小さいように見える」と投資家から指摘されたことのある起業志望者の方も多いのではないかと思います。こうしたコメントの背景には単純な計算があります。そのロジックを知っておくことで、自分自身でスタートアップのアイデアの良し悪しを多少判断できるようになるかもしれません。

そこで今回は、昨今日本でスタートアップが増えているB2B SaaSを例に挙げてそのロジックを解説します。

売上100億円が一つのマイルストーン

スタートアップとは急成長する企業だと言われます。では実際にはどの程度の企業になることを期待されているでしょうか。

目標通過地点の一つは100億円の年間売上 (ARR $100M) だと言われています。日本だと一桁少ない売上でもマザーズに上場できますが、上場後も成長を求められるので、100億円を目指すというのはそこまで変わらないでしょう。

別の角度から売上100億円というのを見てみます。1000億円ぐらいの時価総額での上場を目指すとしましょう。現在のSaaSへの期待なら妥当な目標額と言えます。上場後の時価総額の相場はSaaSならPSR(時価総額と売上の比率)で10~20倍前後が相場だと言われており、低めの10倍で見てみると、1000億円の時価総額のためには100億円の売上が必要です。ということで、ここでも100億円が一つのラインとなります。

なので、VCから投資を受けるようなスタートアップを作りたいと思っている場合、(可能性は低くても)将来的に売上100億円に到れそうかどうかがスタートアップのアイデアかどうかを判別するカギとなります。

市場の大きさを考える

そのためには当然、100億円以上の市場があることが前提となります。

日本の市場規模の調べ方としては、市場規模マップや、より細分化された市場では調査会社が出しているレポートなどがあります。その市場の何パーセント程度を取れれば100億円になるのかを計算すれば、簡便な検算にはなります。ただし調査会社のレポートでは市場規模(特に予測)は大抵大きめに出がちなので注意してください。

ただしこれは本当に簡単なトップダウンでの計算の方法であり、ほぼ理論値の限界を見ているにしかすぎません。この数値だけでスタートアップのアイデア足りうるかを判断するには早すぎます。

価値があるのはボトムアップの検算で、ボトムアップの視点でスタートアップとして成立するかどうかを見てみましょう。

顧客単価と顧客数を考える

年間売上100億円を達成するために必要な顧客単価と顧客数を単純計算すると以下のようになります。

顧客単価(年)

必要な顧客数

100億円

1社

10億円

10社

1億円

100社

1,000万円

1,000社

100万円

10,000社

10 万円

100,000社(人)

1万円

1,000,000社(人)

(月間ではなく年間の顧客単価であることに注意してください。)

先ほどの表と同様のことを表現している、以下の図を見たこともある人もいるのではないでしょうか(ちなみに2019年にアップデートされています)。

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The Angel VC: Five years later: Five ways to build a $100 million SaaS business (christophjanz.blogspot.com) より

当たり前ですが、年間の顧客単価が大きければ大きいほど、100億円に至るために必要な顧客数は少なくなり、逆に顧客単価が小さければ小さいほど、必要な顧客数は大きくなります。

たとえばSlackのような企業は、月額850円(年1万年程度)からの単価です。そのため、100億円に至るには100万人に販売しなければなりません。現在は約900億円の売上があるため、実際に数百万人に売っているのでしょう。ちなみに2014年に公開されたSlackが売上100億円に達したのは2016年です(初年から12億円程度の売上がありました)。

一方、Palantir のような企業は125の顧客から一社平均600億円の売上を上げているそうです(SaaSとは言い難いかもしれませんが)。1社から100億円の案件を獲得して売上100億円を達成する例と言えるでしょう。

100億円を達成する方法は様々あるということです。

顧客単価の大きさは課題の大きさ

このとき、顧客単価の大きさは、顧客にとっての課題の大きさとも言えます。

課題の大きさは「ペインの深さ」と課題が起こる「頻度」 でおおよそ決まります。課題の頻度はGoogleの「歯ブラシテスト」に倣って、1日3回ぐらいであれば高頻度と考えてください。経費精算は月に1度なので比較的低頻度になり、旅行であれば半年に一回程度で低頻度です。

顧客単価が大きくなるにつれて、解くべき課題は大きくなる、という認識で以降をご覧ください。

顧客単価 年1万円の場合

この価格帯は比較的小さな課題や、もっと安価な代替品や無料の代替策で何とかなる課題を解決している領域です。

もし月額1,000円のSaaSやB2Cサービスの場合、年間だと1.2万円の売上となります。表では一番下のラインに該当し、約100万社(人)という広い範囲からの課金が必要です。ただ、この価格帯は企業単位の課金ではなく、Slackなどのようにシート単位の課金になるでしょう。その場合でも100万人のユーザーです。

この価格帯で産業特化型のSaaSを考えた場合、その業界に100万人の就業人口がいるのかがまず問題になります。一つの業界といっても、その中にも営業の人もいれば、技術の人もいて、全員が使うとも限らないので注意してください。そうなると、産業特化で100万人を満たすのは難しくなります。

いずれにせよ、業界横断のHorizontalなスタートアップ、海外展開前提のスタートアップでない限り、成立させるのはとても難しい価格帯となります。

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産業別就業者数|早わかり グラフでみる労働の今|労働政策研究・研修機構(JILPT)

顧客単価 年10万円

年間10万円払うサービスは、生活必需品を除けば、個人だと切迫した課題を解決するもの(学習、美容、出会い)か、娯楽(漫画、旅行)、人付き合い系(贈り物など)でしょう。

企業向けだと、Mailchimpなどのメール配信システムなどがこの価格帯です。10万円はそれなりに切迫感がある課題ですが、そうした切迫した課題を持つ 10万人の顧客が必要です。

企業向けサービスの場合であっても、その業界に十分な社数があるのか、という問題が出てきます。たとえば社数が多いと思われる製造業でも、全国で約66万社です。「製造業」というくくりは大きすぎるので、より細分化してみてみると、10万社ある業種はありません。単価10万円だと10万社必要だと書きましたが、それを満たせる業種も中々なさそうだということです。こちらも海外展開などを考える必要があるでしょう。

顧客単価 年100万円

月額10万円(年120万円)のサービスだと、B2Cだと住居費など生活に欠かせないもの、そしてB2Bでも月10万円以上の効果を発揮するような業務効率化や、月10万円以上の利益を増すためのツールとなってきます。その場合でも1万社必要です。

年1000万円以降は省略しますが、考え方は同じです。課題が大きくなり、必要な顧客数は減る、という形になります。

 

スタートアップは5~10年後の市場を見ているため、現時点でこれだけのユーザーや企業がいる必要はありません。ただこの価格帯の場合、5~10年後に、この顧客数とこの顧客単価を達成できるどうかがスタートアップのアイデアと言えるかどうかの最初の判断軸となります。*1

ここまで、どのような単価を設定するかによって、売上100億円の目指し方は大きく異なってくることを見てきました。ここからは単価をどこに設定するかで、どれだけ実現性があるかが変わってくることを考えます。

100億円を実現するためのディストリビューションを考える

実現性を考えるときはディストリビューションに注目します。ディストリビューションはビジネスの拡大にとても大事で、避けて通れないからです。そして単価によって、取りうるディストリビューションの手段が大きく変わってきます。

顧客単価1万円の製品のディストリビューション手法

この価格帯の製品で可能なディストリビューションの手段も限られます。基本的にはマーケティングかつセルフサーブです。

顧客単価10万円の製品のディストリビューション手法

ここも基本的にはマーケティングかつセルフサーブです。インサイドセールスであれ、人をつけると基本的には赤字になる価格帯です。

顧客単価100万円の製品のディストリビューション手法

年間100万円の単価で1万社を獲得する、という手もあります。ただしこの価格帯の場合、営業手段が限られてきてしまい、苦しい戦いになりがちです。

LTV/CAC = 3 以上が健全なユニットエコノミクスだと言われますが、仮に平均5年契約してくれるとしたら、年100万の顧客単価でもLTVは500万円となり、かけられるCACは167万円となります。セールスサイクルがとても短ければダイレクトセールスを使えるかもしれませんが、1万社だと地理的にも分散していることが多いため、基本的にはインサイドセールス、もしくはマーケティングが主な顧客獲得・維持手段となるでしょう。

しかしこの単価の商品をこうしたディストリビューションの手段でうまく行える企業はそう多くありません。なのでセールスしやすい優れた製品か、一度顧客がサービスを入れたらしばらく何があっても変えないような粘着力のある製品にしてLTVを伸ばす、などの対応が求められるでしょう。

顧客単価1000万円の製品のディストリビューション手法

1000万円以上になると、ようやくいろいろなディストリビューションの手段を使えるようになってきます。ダイレクトセールスとインサイドセールスの組み合わせなどもできます。

そしてこの価格帯になってくると、契約を取るのは難しくなりますが、チャーンレートは下がります。一度入れば長く使ってくれやすい、という価格帯です。

f:id:takaumada:20210914093842p:plain*2

 

これ以降の金額帯も同様なので省きますが、顧客単価によって取りうるディストリビューションの手段が異なるという点は押さえておいてください。

 

顧客単価から考える戦略

ここまで実現性などを考えてきましたが、今回例に挙げたSaaSなどのスタートアップを狙う場合 、

(1)最初から1社あたり年間1,000万円の売上を狙える、大きな課題に挑む

という方策が、実はバランスの良い現実的な方法と考えられます。

話を聞いていると、多くの人が安い単価で多くの人に売るモデルを考えてしまいがちなようです。普段個人としてはそうしたB2CやHorizontalなサービスにしか触れる機会がないことも要因としてあると思います。しかしその発想では100億円に至るのはなかなか難しいため、価格帯を上げていくほうが実行性は高まるように思います。

年1,000万円のサービスと聞くと高いように思えるかもしれませんが、顧客側にとってみれば従業員を二人雇えばそれぐらいの金額に行く業界もあるでしょう。そう考えると、納得すれば払ってもらえる金額感でもあるはずです。

とはいえ、もちろん他にもやり方はあります。たとえば、

(2)最初は安い単価の製品で参入し、その後に高価格帯に移行できるような戦略を作る

ということを行えば、最初の単価は低めにしてSMBなどを狙い、そこで実績を作ったらエンタープライズに行くなど、次第に高単価を狙っていく、というシナリオを描くこともできます。Salesforceなどはこうした手法を取っていたようです。また、一つの製品を皮切りに、その際にある高付加価値な製品につなげていくということもできるでしょう。たとえば請求書周りを取ってから、その周辺の金融ビジネスをしていく、といったように。

ただ、こうした展開シナリオがそれなりに説得的でなければ、現状のプライシングの延長線上で考えられてしまい、売上100億円には達成できそうもない、という判断になってしまうかもしれません。ちなみに上に金融を組み合わせるモデルを例に挙げましたが、安易に金融を組み合わせるのは「本気? それとも夢物語?」となりがちなので注意してください。

その他にも、

(3)人(=シート)単位の課金ではないビジネスモデルを狙う

という手段があります。業界で働く人の最大値はそれほど急激に変わりませんが、シート以外の流通量や利用総量は変わるかもしれないからです。実際、最近は従量課金のスタートアップも増えてきています。

 

ただしそれぞれ難しい点があります。

(1)は大きな課題は解決しづらいからこそ解決されずに残っているのが通例です。それにこの額を払えるのはエンタープライズであり、起業数は絞られ、最初の契約までも長くかかります。

(2)の場合は高価格帯へ行くための戦略がとても重要になります。たとえば最初は安く入ってあとから高くするために、どのような戦略でそのステップを踏んでいくのかの説得力が必要になります。またその戦略がどれだけよくても、最初の一歩である最初の製品が成功できないので、最初の製品の出来も当然見られます。もし単独の製品の値上げをしていく場合、単独のプロダクトラインで後から高価格帯にするといっても、最初の価格の100倍にはなかなかできないので、最初から年間100万円程度は狙っていく必要があるかもしれません。

(3)の場合はテイクレートとして何パーセント取るか、従量課金としてどれぐらい取るかによって、どれだけの流通総額が必要なのかが決まるため、それだけの流通総額や利用量がある領域かどうかが見られます。

 

2年で5,000万円: 成長率を基に直近の目標を考える

次に売上100億円に至るまでの時間軸を見てみます。

SaaSのスタートアップの成長率はT2D3を目指すようにと言われます。T2D3はTはTriple、DはDoubleの略で、3倍、3倍、2倍、2倍、2倍といった年間成長率のことです。この通りに成長すると5年で合計72倍の成長をします。かなりうまくいくケースでこの成長率です。

売上5000万円からT2D3の成長率の軌道に乗ったとすると、うまくいってその5年後に売上36億円になります。その後、1.4倍成長が3年続けば約100億円です。ここで合計8年かかります。

起業から上場までが大体10年とすると、最初の約2年で売上5,000万円に到達できて、5年間をT2D3で成長して、そのあと残り3年は少し成長スピードが落ちてもなんとか100億円になりそう、というような計算になります。SaaSは最初時間がかかる傾向にあるため、最初に2年程度かかるのは不思議ではありません。

ただしどこからT2D3なのか次第で変わるので、あくまで一例とお考え下さい。とはいえそこまで大きく外れた数値ではないと思うので、起業時から2年で5,000万円の売上をプロダクトで出せるかどうか、というのも、一つのチェックポイントとして考えてみると良いでしょう。

 

まとめ

ということで、SaaS のスタートアップのアイデアを考えるときには、

(a) 年間100億円の売上になりうるかどうか

(b) そこに至る方法としてどの道(単価)を選ぶのか

(c) 数年後までに売上5000万円~1億円を達成して、その後T2D3で成長していけるのか

を自分自身でチェックしてみると、今考えているスタートアップのアイデアとして機会を追求するべきか捨てるべきかが見えてくるように思います。

 

いくつか注意点があります。

この計算はUSのSaaSの考えをベースにしています。日本だと少し考え方が異なる部分や数字もあると思いますし、かなり単純化をしてはいます。とはいえ基本的な考え方は同じだと思います。アイデアを思い付いたとき、こうした簡単な計算をしてみると、(十年後の)良い市場を選ぶヒントになるかと思い、書きました。

なお、SaaSビジネスよりももっと利益率が低いビジネスの場合、売上ではなく利益で見る(PSRではなくPERで見る)など、もう少し別の視点が必要になることもあります。また人材紹介などの労働集約的なビジネスの場合もこうした計算とは少し異なると思いますので、あくまで利益率の良いIT系での話だということには注意してください。逆にハードテックの企業の場合は、技術への期待からPSRがもっと高い場合もあります。

数年に一度現れる例外的なスタートアップはこうした計算の枠に収まるものではありません。何かの地殻変動が起こっているときは、異なる考え方をした方が良いでしょう。ただ現在取り組まれている多くのスタートアップの領域、特に業界特化の領域では、一つの参考となる計算になるのかなと思っています。

 

最後になりますが、ほとんどのアイデアはこの基準を満たしません。ただし、満たさないからと言ってダメなアイデアというわけではありません。スタートアップでなくても素晴らしく意味のあるビジネスはたくさんありますし、ほとんどのビジネスはVCからの投資を得ずに進めていく方が良いときが多いように思います。今回の話はあくまでVCから資金調達をするようなスタートアップを狙うとしたら、という話をしたものとお考え下さい。

参考になる資料

*1:B2Cは一気にユーザーが増える、つまり行動を変える人が増える可能性はありますが、B2Bでは雇用数はそこまで大きく変わりません。産業別の従業員数や雇用者数は統計資料が参考になります。

*2:State of the Cloud 2019 · Bessemer Venture Partners (bvp.com) より

起業家教育と起業家トレーニングの違い

起業家教育といってもその内実は様々です。いくつかの文献[1][2]では、起業家教育 (Entrepreneurial Education) と起業家トレーニング/研修 (Entrepreneurial Training) を峻別しています。

起業家トレーニング/研修は特定の活動のパフォーマンスを上げるものであり、事業の運営に必要なスキルや知識を提供します。対象は主に潜在的な起業家やすでに起業している人です。

一方、起業家教育は起業家精神の涵養や問題発見等の広範な知識やスキルの獲得といったより広い教育であり、その対象は起業家だけではありません。

もちろん教育とトレーニングは不可分なところもあり、両者を合わせてEntrepreneurial Education and Training (EET) と呼ぶことも多々あります。しかし両者のグラデーションの中でどちらに寄っているかは考えたほうが良いのではないかと思います。また、教育対象によってどちらに重きを置くかは変えたほうが良いのではと思っています(下図のように)。

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たとえば資金調達の方法を教えるような講座の多くは教育ではなくトレーニング(研修)でしょう。資金調達という特定の活動のパフォーマンスを上げるためのものだからです。ただし、もし資金調達の知識や方法を身に着けることを通して、より抽象的な「外部からリソースを獲得する能力」の向上を図っているのであれば、それは教育と言えるかもしれません。ただ、両者は教育目的が異なるため、教え方も異なってくるはずです。

巷で行われている「起業家教育」の多くはトレーニングに類するものが多いように見えます。資金調達の方法、事業計画書の書き方、マーケティングの方法論など、これらの多くは特定の活動をうまく行えるようにするためのトレーニングであり、研修です。事業を運営する上では役に立つスキルで、重要ではありますが、その先の広範なスキルや態度の獲得にそのまま結びつけることは相当うまく設計しないと難しいことでもあります。

昨今の起業家教育に対する注目度が上がっている中で、単なるビジネストレーニングを中高生や大学生に行うことが「起業家教育だ」と混同することはいささか危険のように思います。起業家教育という名目の元で起業家トレーニングが中等教育や高等教育で跋扈することになりかねないからです。それらは本来、職業学校やプロフェッショナルスクールで行われるべき内容です。

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図は [2] より

たとえば私が公開しているスライドの多くは、教育ではなくトレーニングに類します。実際、大学の授業などで教育を行うときには、社会人向けに公開しているスライドと異なるスライドを多く作りますが、それがトレーニングと教育の差なのかなと思っています。

なお、個人的には、Entrepreneurial Educationは「起業家精神教育」と訳して、より広義の起業家精神(アントレプレナーシップ)を涵養するための教育なのだ、という位置づけにした方が良いのではないかと考えています。ただしそれを行うときには、アントレプレナーシップとは何なのか、そしてそれは学べるのか、といった別種の難しい問題も生まれてきます。しかしそれらに十分答えられてこそ、起業家教育と言えるのではないか、とも思っています。

 

[1] Hynes, B. (1996). Entrepreneurship education and training ‐ introducing entrepreneurship into non‐business disciplines. Journal of European Industrial Training, 20(8), 10–17. doi: 10.1108/03090599610128836

[2] Valerio, A., Parton, B., & Robb, A. (2014). Entrepreneurship Education and Training Programs around the World: Dimensions for Success. doi: 10.1596/978-1-4648-0202-7