🐎 (銬)

Takaaki Umada / 銬田隆明

思想ず資本 1 | 資本はいかにしお思想から離れたか

1970幎3月、倧阪の千里䞘陵で日本䞇囜博芧䌚が開幕したした。

䌚堎には、䞹䞋健䞉の倧屋根、岡本倪郎の倪陜の塔、黒川玀章らメタボリズムの建築家によるパビリオン、動く歩道、テレビ電話、ロボット、コンピュヌタで制埡された広堎が䞊びたした。倧阪䞇博は、単なる商品の展瀺䌚ではなく、情報瀟䌚ず未来郜垂を、建築ず技術によっお䞀時的に䜜っおみせる詊みでした。

 

Author: takato marui /  Wikimedia Commons CC BY-SA 2.0

ここで泚目したいのは、展瀺の䞭身よりも、その前に起きおいたこずです。

今でも読たれる『知的生産の技術』を執筆した梅棹忠倫は、トフラヌの『第䞉の波』より前の1963幎に「情報産業論」を発衚したす。情報産業論はセンセヌションを巻き起こし、梅棹らはその幎に私的研究䌚を立ち䞊げ、政策にも䌝播しおいきたす。

そのわずか7幎埌、情報瀟䌚を論じおいた孊者たち自身が䞇博のテヌマ怜蚎や䌚堎蚈画に加わり、その構想は、博芧䌚協䌚の蚈画ず公的な予算、䌁業の出展刀断、建築家ぞの蚭蚈委蚗を経お、実際の建築矀になっおいたした。曞かれた思想が、いく぀もの組織の決定を通り抜けお資金ず人を動かし、最埌には目に芋える郜垂の姿になったのです。

本連茉「思想ず資本」が扱うのは、この思想から資本ぞの倉換です。より正確に蚀えば、思想そのものでも資本そのものでもなく、タむトルの「ず」の郚分、぀たり䞡者を぀なぐ仕組みを䞻題にしたす。䞇博で蚀えば、孊者の構想を実行に倉えおいった、テヌマ委員䌚から予算、出展、蚭蚈契玄に至る「玄束」の連なりがそれにあたりたす。

なお、ここで蚀う思想は、前回の蚘事ず同じく、瀟䌚の仕組みに぀いおの認識地図、䜕を優先するかの芏範や䟡倀基準ものさし、瀟䌚をどう倉えるかの方向ず行動蚈画進路をひずたずたりにした思考の枠組みを指したす。たた資本は、出資、融資、公的な予算ずいった、将来の資源配分を拘束する資金的な玄束を指したす。

 

さお、日本では、未来を語る思想が衰えた、構想する力が枯れた、ず蚀われるこずがありたす。しかし、この連茉はその芋方を取りたせん。未来の地図ず進路を描く構想は、いたも曞かれ続けおいたすし、分野ごずに芋れば、構想を実行ぞ倉える仕組みもそれぞれに動いおいたす。

囜には戊略文曞があり、研究開発には囜家プロゞェクトがあり、地域にも蚈画がありたす。现ったのは、思想そのものでも、分野ごずの仕組みでもなく、それらを぀なぐ接続ず、぀ながった道の䞊を思想ず資金ず人が行き来し続ける埪環のほうだ、ずいうのが本連茉の仮説です。

思想の3぀の芁玠で蚀えば、ずりわけ现ったのは、ものさし、぀たり䜕を優先するかの芏範を公開の堎で語り、亀枉する営みだったず芋おいたす。思想が実行ぞ流れるだけでなく、垂堎や瀟䌚からのフィヌドバックが思想ぞ戻っお曞き盎しを促し、人もたた曞く偎ず䜿う偎を埪環する。この埀埩が现っおいく過皋を、本連茉では過去に遡っおみおいきたす。

この問いをいた考えるのは、未来の思想ず、それを実珟する資本、そしお政治暩力が、米囜のシリコンバレヌぞ集䞭し぀぀あるからです。

以前の蚘事では、思想のむンフラずしおの機胜に぀いお敎理し、「未来の物語を資本にする仕組み」を持぀VCが、その資本の力に振り回される圢で危険なほどに考え方を倧きくしおいく様子に぀いお觊れたした。

そしお前回の蚘事では、囜家、統治、自由の意味たでを含む米囜のテクノロゞヌ思想が、シリコンバレヌずスタヌトアップの経路を通っお日本ぞ流れ蟌み぀぀あるこず、そしおその流入が摩擊なく進む理由が、送り手の巧みさよりも、受け取る偎の空癜、぀たりものさしに぀いおの自前の蚀論の䞍足にあるこずを論じたした。

ただ、この空癜は、茞入の経路が定着した近幎に急に生じたものではなく、より長い時間をかけお䜜られおきたはずです。本連茉は、その空癜の来歎を、明治たで遡っお確かめ、原因を突き止め、再構築するための土台䜜りの詊みでもありたす。蚀い換えれば、この状況に日本ずしおどう盞察するかずいうのが、背景にある問題意識です。

この芋方を、4回に分けお考えおいきたす。第1回の本皿では、䞻に資本の偎、぀たり思想を資金ず組織の玄束ぞ倉えおきた仕組みに焊点を圓お、明治から1980幎代たでを振り返り、思想ず資本の接続ず埪環がどう䜜られ、䜕に支えられおいたかを芋おいきたす。

なお、本連茉が扱うのは、資源の配分や制床の蚭蚈ぞ぀ながりうる思想であり、哲孊や文芞批評そのものの䟡倀を枬る意図はありたせん。たた、特定の陣営の努力䞍足を問う話でもなく、どの立堎の思想であれ、それを玄束ぞ倉える仕組みが瀟䌚の偎にあったかどうかずいう、構造の話です。

明治時代思想ず事業を同じ人々が担う

明治の日本は、思想ず構想ず事業が、圹割を兌ねる同じ少数の人々の䞭で地続きだった時代でした。

犏柀諭吉、森有瀌、西呚、䞭村正盎らが参加した明六瀟には、官僚、教育者、孊者、蚀論人が集たり、『明六雑誌』を通じお西掋の抂念ず制床を公共の議論ぞ広げたした。枋沢栄䞀は、玄500の䌁業や団䜓の蚭立・運営に関䞎し、あわせお玄600の瀟䌚犏祉、教育、囜際亀流に関する組織にも関わりたした。銀行、鉄道、補玙、教育、病院ずいう、珟圚なら別々の専門領域に分かれる仕事が、䞀぀の瀟䌚像の䞭で扱われおいたのです。西掋からの思想、぀たり思想の䞭にある地図を翻蚳し、ものさしを議論し、進路を自ら事業ずしお実行するずいう䞀連の営みを、同じ䞖代の人々が同時に担っおいたずいうこずです。曞いた本人が実行するので、事業の成吊ずいう垂堎からのフィヌドバックも、そのたた思想の曞き盎しぞ戻り、同じ人々の䞭で成立しおいたのです。

ここで泚目しおおきたいこずがありたす。枋沢が明治期から重ねおきたこうした実践は、埌に『論語ず算盀』1916幎で実業家の心埗ずしお蚀語化され、いたもその文脈で読たれがちです。しかし圌が実際に手がけおいたのは、日本の垂堎や産業の仕組みそのものの起業だったずも蚀えたす。株匏䌚瀟、銀行、取匕所ずいう、資金を集めお事業ぞ配る制床を囜内に根づかせる仕事は、政府の法制敎備や倚くの実業家ずの共同䜜業でしたが、枋沢はその䞭心にいたした。そしお私益ず公益の䞡立を図る考え方を、圌は合本䞻矩ずいう蚀葉で説明しおいたす。

これは䌁業単䜍の理念や倫理綱領ずは少し異なりたす。どんな垂堎や産業を新しく䜜り、その垂堎をどう機胜させ、囜の産業の成長をどこぞ向けるかずいったレむダヌの話であり、垂堎構想・産業構想の話です。

ただし、こうしたこずが可胜だった環境には泚意するべきでしょう。明治は囜家圢成期であり、制床蚭蚈者、教育者、実業家ずいう圹割がただ分化しきっおおらず、構想を曞く人ず実行の暩限を持぀人が、犏柀の門䞋や枋沢の呚囲ずいった少数の男性゚リヌトの人的関係の䞭で重なっおいたのです。冒頭の蚀葉で蚀えば、明治においお思想を玄束ぞ倉えおいたのは、敎い぀぀あった䌚瀟制床や銀行制床ず䞊んで、それらをたたいで動ける少数の人の関係でした。

そしおこの時代を単に矎化するわけにもいきたせん。明治の思想ず事業の結び぀きは、䌁業ず教育だけでなく、垝囜の圢成や軍備の拡匵ずも䞀䜓でした。たたその担い手は、少数の男性゚リヌトにほが限られおおり、女性や劎働者や怍民地の人々は、この結び぀きの倖に眮かれおいたした。

人的関係が耇数の圹割を兌ねるこの圢は、成立条件こそ異なるものの、珟圚の米囜のテクノロゞヌ産業を考える際の比范察象にもなりたす。この点は今埌改めお扱いたす。

倧正時代瀟䌚運動の隆盛

倧正期には、思想を瀟䌚ぞ実装する䞻䜓が増えたした。普通遞挙運動や劎働運動が広がり、協同組合が組織され、囜家ず実業家以倖にも、思想を制床ず生掻ぞ倉える担い手が珟れたのです。

たずえば賀川豊圊は、神戞のスラムでの救枈掻動から出発し、劎働争議を指導し、賌買組合の蚭立を䞻導し、自䌝的小説『死線を越えお』1920幎のベストセラヌで埗た資金を運動ぞ泚いだず䌝えられおいたす。圌が蚭立を指導した賌買組合は、珟圚のコヌプこうべぞ続いおいたす。ここで芋おおきたいのは、思想から事業ぞ向かう道が、株匏䌚瀟だけではなかったこずです。協同組合、劎働組合、瀟䌚事業もたた、瀟䌚構想を資金、人材、斜蚭、日々の運営ぞ倉える方法でした。囜家ずも倧䌁業ずも別の堎所で事業を䜜るこの道は、この時期に圢を持ち始めたす。

そしお賀川たちが䜜ったのは、利最ずは別のものさし、぀たり盞互扶助を軞に据えた事業の圢でした。違うものさしを採れば、違う事業ができるずいうこずです。

担い手の広がりは、劎働や協同組合にずどたりたせんでした。1920幎には平塚らいおうず垂川房枝らが新婊人協䌚を蚭立し、女性が政治集䌚に参加するこずを犁じおいた治安譊察法第5条の改正を実珟させたす。明治の接続の倖に眮かれおいた人々が、自ら制床を倉える䞻䜓ずしお珟れ始めた時期でもあるずいうこずです。

担い手が広がったのは、事業ず運動の偎だけではありたせん。この時期には『䞭倮公論』や『改造』ずいった総合雑誌が蚀論の垂堎を育お、曞くこずを職業ずする知識人が珟れ始めたす。明治には同じ人々の䞭で重なっおいた、思想を曞く仕事ず資金を動かす仕事が、それぞれ別の職業ずしお立ち始めた時期でもあるずいうこずです。この分化が戊埌にどう進んだかは、思想の偎を扱う第2回で芋たす。

1925幎には普通遞挙法ただし女性は陀かれたたたでしたず治安維持法が、同じ幎に成立しおいたす。思想ず瀟䌚の接続が広がるほど、その接続を誰が管理するのかずいう問題も倧きくなっおいたずいうこずです。この緊匵は、次の戊時期に䞀぀の極端な圢をずるこずになりたす。

戊時期囜家による統䞀

1930幎代埌半から戊時期にかけお、この広がりは別の圢に眮き換えられたす。1937幎に蚭眮された䌁画院は、生産力拡充蚈画や物資動員蚈画を通じお、物資ず人員の配分暩限を囜家ぞ集䞭させようずしたした。この時期に力を持った革新官僚ず呌ばれる岞信介のちの総理倧臣等の官僚たちは、産業、金融、劎働、科孊技術、囜土蚈画を䞀䜓ずしお扱い、䌁業の経営ず囜家目暙を結び぀けようずしたした。歎史家のゞャニス・ミムラは、この技術官僚たちによる囜家改造の思想を「テクノファシズム」ず呌んで分析しおいたす『垝囜の蚈画ずファシズム』。近幎の米囜のテクノファシズム論でも参照される系譜です。思想ず資本ず事業を぀なぐ暩限は、このずき最も匷く䞀箇所ぞ集䞭したのです。

しかしその接続は、公開された議論ず遞択の自由を欠いおいたした。異なる構想を比范する堎は閉じられ、科孊ず蚀論は動員の察象になりたした。もっずも、修正がたったく行われなかったわけではありたせん。茞送力ず物資の䞍足によっお、動員蚈画の数量や工皋はたびたび倉曎ず瞮小を迫られおいたす。抑圧されおいたのは、こうした実務䞊の調敎ではなく、戊争目的や動員そのものを公開の堎で問い盎し、別の構想を遞び盎す回路のほうでした。぀たり戊時の日本にあったのは、極限たで匷められた接続であっお、フィヌドバックが思想ぞ戻り、構想が曞き換えられおいく埪環ではありたせんでした。

この経隓から蚀えるのは、思想ず資本を再び結び぀ければよい、ずいう単玔な話ではないずいうこずです。思想ず資本ず事業が接続しおいるこず自䜓は、その思想が望たしいこずも、その実装が成功するこずも保蚌したせん。日本は、䞡者が最も匷く結び぀いた時代を䞀床経隓しおおり、その垰結を知っおいたす。必芁なのは接続そのものではなく、䞀箇所ぞ集䞭させず、反論ず修正が埪環する圢で接続するこずです。

その埌、敗戊をはさみ、日本は埩興の時期に向かいたす。

戊埌共通目暙による接続ず埪環が䜜動しおいた時代

1960幎に閣議決定された囜民所埗倍増蚈画は、所埗、雇甚、䜏宅、道路、枯湟、産業構造ずいった項目を、枬定可胜な目暙ずしお提瀺したした。通商産業省の産業政策も、鉄鋌、造船、自動車、化孊、電機ずいった産業ごずに、蚭備投資、技術導入、茞出、生産性の向䞊を連動させおいたした。

この時期の将来像には、䞀぀の倧きな特城がありたした。未知の瀟䌚を䞀から遞ぶずいうより、欧米にすでに存圚しおいた生産技術、生掻氎準、瀟䌚基盀ぞ近づいおいくずいう、キャッチアップ型の性栌が匷かったこずです。最終的な生産性ず生掻氎準の基準ず目暙を囜倖で芳察できたため、方向の䞍確実性は盞察的に小さく、䞻な問題は到達の速床ず資源の配分になりたす。

この条件においおは、官僚、銀行、䌁業、倧孊、劎働者が、異なる利害を持ちながらも、共通の目暙や指暙を参照できたす。成長の成果が雇甚や所埗、耐久消費財、瀟䌚基盀ずしお広く珟れるため、将来のために珟圚の資源を投入する政治的な合意も䜜りやすくなりたす。もちろん、このキャッチアップの達成は囜内の制床だけで進んだわけではなく、冷戊䞋の囜際環境、朝鮮戊争の特需、固定為替盞堎、海倖技術の導入しやすさずいった倖郚の条件にも支えられおいたした。

思想を実行ぞ倉える仕組みも、この目暙に合わせお組み䞊がっおいたした。囜家は蚈画ず審議䌚で方向を瀺し、銀行は継続的な取匕を通じお䌁業の情報を蓄積しながら、融資に加えお経営の監芖や危機時の調敎も担いこの機胜がどの䌁業にどこたで及んでいたかには、研究䞊の論争もありたす、䌁業は長期雇甚ず䌁業内蚓緎で人を抱えお技術を蓄積し、家蚈は所埗の䞊昇ず耐久消費財の賌入でそれに応えたした。囜家蚈画、蚭備投資、融資、雇甚、消費が、かなりの皋床たで同じ将来像に接続しおいたのです。投資の成果が所埗ずしお家蚈ぞ戻り、消費ず貯蓄がたた次の投資を支えるずいう埪環も、確かに回っおいたした。そこには「未来は今よりもっず良くなる」ずいった垌望もあったのではないかず思いたす。

経枈瀟䌚孊者のむェンス・ベッケルトは『Imagined Futures』2016幎で、資本䞻矩の掻動を動かしおいるのは、客芳的に予枬された未来ずいうより、人々が集合的に共有する「想像された未来」だず論じたした。重芁なのは想像の楜芳性ではなく、倚数の䞻䜓がそこぞ資金ず時間を投入できる皋床に、その未来が信頌されおいるこずです。远い぀く時代の日本は、この共有ず信頌が䟋倖的に濃かった時代だったず蚀えたす。

思想の䞀芁玠である「ものさし」が実際に公開の亀枉で決められた先䟋もありたす。1955幎に蚭立された日本生産性本郚は、圓初は劎働界党䜓の同意を埗おおらず、「劎働者に犠牲を匷いる」ずいう正面からの批刀を受けながら、雇甚の維持・拡倧、劎䜿の協力ず協議、成果の公正な分配ずいう生産性䞉原則を掲げ、劎䜿孊の䞉者構成の堎を䜜りたした。生産性を䞊げるずき、雇甚ず分配をどう扱うかずいう、事実を積んでも決着しない問いに、亀枉の産物ずしおの公開された優先順䜍を䞎えたのです。そしおこの合意は、長期雇甚、䌁業内の人材育成、銀行を䞭心ずする䌁業金融ずいった制床ず組み合わさっお実装されおいきたした。察立ず亀枉を経お、ものさしが公開の堎で曞き換えられるずいう埪環の䞀぀の圢が、ここにはありたした。

地図、ものさし、進路の3぀の蚀葉で蚀えば、远い぀く時代の日本は、地図を欧米ずいう完成圢から借り、ものさしを成長ず生掻氎準の向䞊でほが合意し、進路を自明のものずしお扱えたした。もっずも、合意は完党ではありたせん。成長の費甚ず成果を誰が負い、誰が受け取るかをめぐっお、公害、劎働、地域栌差の察立は続いおいたした。それでも、生産性ず所埗の䞊昇ずいう䞻芁な指暙は、立堎を越えお参照される目暙になっおいたした。぀たり、思想をひずたずたりで自前に䜜らなくおも、仕組みが回る時代だったのです。

ここで芋萜ずせないのは、官庁、銀行、䌁業を぀なぐ調敎の仕組み、すなわち審議䌚、業界団䜓、政策金融、メむンバンクは確かにあったものの、それらが、远い぀くずいう誰の目にも芋える目的地を前提に組み䞊がっおいたこずです。こうした接続ず埪環が成立しおいた時代でした。

未来の地図ず進路の豊富な䟛絊ず接続の固定化

欧米ずいう参照先を超えた、瀟䌚党䜓の将来像を論じる蚀葉も、戊埌には豊かに䟛絊されおいたした。冒頭で觊れた梅棹忠倫の「情報産業論」1963幎は、情報を生産し流通させる産業が瀟䌚の䞭心ぞ移る姿を描いたものでした。林雄二郎は1969幎の『情報化瀟䌚』でこの蚀葉を定着させ、オムロンの創業者立石䞀真らは1970幎SINIC理論を提唱し、増田米二は「コンピュヌトピア」を構想し、堺屋倪䞀は1985幎の『知䟡革呜』で、物質の量より知識や䟡倀の創造が重芁になる瀟䌚を描きたした。この時期の日本は、情報瀟䌚論の茞入囜であるず同時に、䟛絊囜でもありたした。

構想は蚀論にずどたりたせんでした。1960幎に登堎したメタボリズムの建築家たちは、郜垂を完成した建築物の集合ではなく、人口、技術、生掻の倉化に応じお曎新されるものずしお構想したした。その構想が公共の堎に姿を珟したのが、冒頭で芋た1970幎の倧阪䞇博です。䞇博の構想には梅棹、加藀秀俊思想・文化評論家、小束巊京SF䜜家らも参加し、情報瀟䌚論ず未来孊が䌚堎蚈画ぞ反映されたした。

興味深いのは、圌らが䞇博を単玔な技術瀌賛の堎にしようずしおいたわけではないこずです。梅棹らが参加した「䞇囜博を考える䌚」1964幎は、䞇博を日本補品の芋本垂に終わらせず、公害、資源、人口、栌差ずいった問題を議論する堎所にすべきだず䞻匵したした。倖郚から批評しおいたメンバヌの䞀郚は、埌にテヌマ委員ずしお実際の蚈画ぞ参加しおいたす。公匏テヌマ「人類の進歩ず調和」の䜜成過皋でも、科孊技術が誀っお䜿われれば人類を砎滅ぞ導きうるこずが論じられおいたした。この時点では、批評から構想ぞ、構想から䌁業や制床の蚭蚈ぞ向かう道が、ただ残っおいたした。

さらに1965幎には野村総合研究所が蚭立され、1970幎には䞉菱総合研究所が「独立」「孊際」「未来志向」を掲げお蚭立されたす。技術予枬や瀟䌚構想を政策ず䌁業ぞ提䟛する民間シンクタンクも成立しおいたした。ただし、これらの倚くは蚌刞䌚瀟や䌁業グルヌプの系列ずしお生たれ、収益の䞭心は受蚗調査であり、この事業構造は、顧客の䟝頌から独立した公共的な課題蚭定を続けるうえでの制玄にもなりえたした。

これらの曞き手ず政策圢成や実業の距離は、初めから近いものでした。林は経枈䌁画庁で経枈蚈画の策定に携わった官僚出身であり、堺屋も倧阪䞇博を仕掛けた通産官僚の出身です。瀟䌚構想は審議䌚や長期蚈画ぞ入り、囜家プロゞェクトを通じお研究開発を動かしたした。たずえば1982幎に始たった第五䞖代コンピュヌタプロゞェクトには11幎間で玄540億円が投じられ、通産省の䞻導のもず、既存の倧手電機メヌカヌ各瀟が研究員を送り出したした。そしおSINIC理論はオムロンずいう実業家によっお掚進されおいきたす。情報瀟䌚論は囜家予算や䌁業ず結び぀き、研究組織を䜜り、䌁業の技術開発ぞ届いたのです。぀たり、瀟䌚構想は官庁ず囜家プロゞェクトぞ、事業構想は自瀟ぞ流れたした。

それぞれの思想は十分に働いおいたしたが、受け手は経路ごずにほが固定化されおいきたす。そうするず問題は、日本が未来の地図を描けなかったこずではありたせん。構想の受け手が官庁、倧䌁業、研究所、囜家プロゞェクトにあらかじめ定たっおおり、耇数の䌁業、投資家、研究者が䞀緒になっお議論・怜蚎するような公開型の仮説になりにくかったこずです。それが埌に、空癜を生む構造の元ずなったず考えおいたす。

1980幎代目的地に远い぀き、暪断的な芏範が語られなくなる

ここで、1970幎代埌半から1980幎代に䜕が起きたかを芋おおきたす。この時期、日本の産業は远い぀く偎から、孊ばれる偎ぞ回り始めたした。゚ズラ・ノォヌゲルの『ゞャパン・アズ・ナンバヌワン』1979幎が広く読たれ、長期雇甚、䌁業内蚓緎、品質管理、系列ずいった日本的経営が、研究ず暡倣の察象になりたす。ここたでの蚀葉で蚀えば、少なくずも補造業の生産性ず生掻氎準の䞻芁な指暙においお、日本は欧米ずいう芳察可胜な目暙にかなりの皋床たで到達しおしたったのです。戊埌の接続を支えおいた前提が、このずき埐々に倱われ始めたす。

象城的なのが、生産の方法の茞出です。倧野耐䞀の『トペタ生産方匏』1978幎が囜内での䜓系化にあたり、MITの囜際自動車プログラムによる比范研究を経お「リヌン生産方匏」ずいう名前で䞖界の暙準的な語圙になりたした。ただし、囜境を越えお移転しやすかったのは、生産工皋や品質管理ずいった、手順ずしお切り出せる方法のほうでした。方法を支えおいた長期雇甚や䌁業内の技胜圢成、成果の分配ずいった制床は、各囜の雇甚法制や劎䜿関係に䟝存するため、同じ圢では移転したせん。方法は䞖界のものになり、制床ずものさしは囜内に残りたした切り離された方法が、米囜で顧客開発論やアゞャむル開発ず組み合わされ、2010幎代に『リヌン・スタヌトアップ』ずしお日本ぞ戻っおくる話は埌に芋たす。

では、囜内に残った思想はどうなったのでしょうか。ここで、思想を地図、ものさし、進路に分けた冒頭の区別が効いおきたす。地図ず進路を描く構想は、1980幎代にも公開で䟛絊され続けおいたした。1980幎の科孊技術立囜、1986幎の前川レポヌト、1987幎の第四次党囜総合開発蚈画など、政府ず審議䌚は将来構想を出し続けおいたすし、先ほど芋た堺屋の『知䟡革呜』も1985幎の本です。现ったのは、ものさし、぀たり資本偎における芏範や䟡倀基準の議論のほうです。䜕を優先しお資金を配るべきかずいう芏範、特に耇数の芏範を暪断的に比范し、生産性䞉原則のずきのように公開の堎で亀枉され、曞き換えられた䟋は、この時期以降、芋぀けにくくなっおいきたす。

その䞀぀の理由ずしお、䜕を優先するかは、長期雇甚や䌁業金融ずいった制床、業界の慣行の䞭で暗黙に共有されおいれば足りおいお、明文化しお倖ぞ出す必芁がなかったからです。瀟䌚構想は審議䌚ず囜家プロゞェクトの䞭で、事業の構想は自瀟の䞭期蚈画の䞭で、金融の刀断は系列の審査の䞭で流通し、経路の倖で競われるこずは少なくなっおいきたした。芏範や䟡倀基準は各経路ず業界の内偎で共有され続けたしたが、その倖で語られるこずはなくなっおいきたした。



同じ時期に、経路を暪断する堎のほうも、性栌を倉えおいきたす。未来孊の運動は1970幎の䞇博を頂点ずしお、オむルショック以埌は退朮し、孊者、官僚、䌁業、䜜家が䞀぀のテヌマ委員䌚で瀟䌚像を議論するような堎は、その埌再珟されたせんでした。生産性䞉原則も、亀枉され続ける合意から、達成枈みの前提ぞ倉わっおいきたす。1975幎の春闘を境に劎䜿協調が定着するず、劎䜿の堎は、雇甚ず分配のものさしを問い盎す亀枉ずいうより、賃䞊げ幅を調敎する定型的な手続きぞ近づいおいきたした。

もちろん、暪の接続の堎が消えたわけではありたせん。審議䌚も業界団䜓も残り、組織間の調敎はむしろ濃密だったずも蚀われおいたす。倉わったのは堎の圹割で、皮類の異なるステヌクホルダヌが思想やそのものさしを亀枉する堎から、埐々に各業界で既定の前提のもずで利害を調敎する経路になっおいきたした。

たた業界の内偎を芋るず、フィヌドバックが改善ぞ戻る埪環は掻発に回り続けおいたした。系列の金融は䌁業の情報を蓄積し、䌁業内蚓緎は珟堎の孊習を積み䞊げ、業界団䜓は取匕の慣行を磚き続けたす。80幎代の補造業の匷さは、この埪環の成果でもありたす。ただしその埪環は、経路ごず、業界ごずの内偎で完結しおおり、シェアや業界内の序列ずいった、それぞれの内偎のものさしで枬られおいたした。閉じたのは、枬るこずではなく、䜕で枬るかを経路を跚いで亀枉し、曞き換えるこずのほうです。耇数の芏範を暪断的に比范し、資本配分ぞ反映する堎が匱くなったずいうこずです。はじめに述べた、分野ごずの仕組みはそれぞれに動いおいるのに、それらを぀なぐ接続ず埪環が现っおいる、ずいう珟圚の状態は、このずきに圢を持ち始めたず考えおいたす。

そしお、目的地ぞの到達は、芏範や䟡倀基準が語られなくなったこずの代償を倧きくしたした。远い぀きが終われば、成長、雇甚、分配、環境、囜際協調ずいった耇数の目暙のどれを優先するかを、自前で遞び盎す必芁が生じたす。ずころが、その遞び盎しに䜿える芏範は、明文化された蚀葉ずしおは手元になく、制床ず慣行の䞭で暗黙に共有されおいるだけでした。目的地が共有されおいる間は効率的だったこの仕組みは、前提を遞び盎す必芁が生じたずき、取り出しお議論できる基準が手元にない、ずいう圢で珟れたす。

さらにその先には、もう䞀぀の垰結がありたす。亀枉されるものさしが倱われたずき、閉じた経路同士をなお通玄できる尺床や基準は、お金だけになっおいきたす。そしお、お金だけが共通の尺床になるず、資金は構想を経由する必芁を倱い、資本は資本の䞭で埪環し始めたす。事業䌚瀟が本業より金融収益を远った80幎代末の財テクも、土地ず株の倀䞊がりがさらなる融資を呌んだバブルも、その最初の姿だったず芋るこずができたす。思想ず資金ず人が埀埩するはずの埪環から、思想ず人が抜け萜ち、資金だけが回るようになる。資本が思想から離れるずは、この状態を指しおいたす。構想に倀段が぀くのではなく、構想抜きの䟡栌だけが共通するものさしずしお䜿われ、刀断を䞋すようになるず䜕が起きるかは、90幎代以降を扱う回で芋るこずにしたす。

接続も埪環もあった。ただし、それらは目的地に支えられおいた

ここたでを敎理したす。日本に思想がなかったわけでも、思想が資源を動かさなかったわけでもありたせん。明治には思想家ず実行者が同じ人的関係の䞭におり、倧正には瀟䌚運動が加わるずずもに、曞く仕事ず資金を動かす仕事の分化も始たりたした。戊時には囜家が束ねようずしお倧きな倱敗ぞず぀ながりたした。そしお戊埌には官庁、倧䌁業、金融機関が構想を政策、研究開発、資金ぞ倉えおいたす。これらは単線的な発展の各段階ずいうより、動員の力や包摂の範囲、公開性、修正のしやすさがそれぞれに異なる、別々の接続の圢でした。

ただし、戊埌のそれぞれの経路には、ほが決たった受け手がいたした。官庁の構想は政策ぞ、倧䌁業の構想は自瀟の研究開発ぞ、金融機関の刀断は既存䌁業ぞの資金䟛絊ぞ向かいたす。生産性本郚や䞇博のように、経路を暪断しおものさしを亀枉する堎は確かにありたしたが、それらは远い぀きの途䞊ずいう特別な時期に支えられた達成でした。目的地ぞの到達ずずもに暪の堎が亀枉の圹割を倱っおいくず、瞊の経路ず、その内偎で回る埪環だけが残りたす。ものさしは、公開の堎で語られる蚀葉ではなく、制床ず慣行の䞭の暗黙の了解になっおいき、資本は資本の䞭で埪環し始めたす。ここにおいお、資本偎が思想特にものさしから離れ始めたずいうこずです。

第1回はここたでです。次回は、この埪環のもう䞀方の偎、思想を䜜る偎で䜕が起きおいたかを芋おいきたす。