「社会」という言葉はもともと日本語にあった言葉ではなく、society という言葉の翻訳のために、明治時代に新しく作られた造語だそうです。
この society という言葉には意味が大きく2つあり、
- 狭い範囲の人間関係 (例: 仲間、友人、組、会)
- 広い範囲の人間関係 (例: 世間、地域、国、世界)
だと言われています。
現在日本で、『社会』という言葉を聞いたときに想起するのは、より抽象的な広い意味での社会、いわば「大きな社会」のほうかもしれませんが、もともとは「小さな社会」の意味も持つ言葉でした。小さな社会と大きな社会がグラデーションのようにある、と捉えたほうが良いのかもしれません。
学校教育やアントレプレナーシップ教育では、「社会課題の解決」が盛んに言及されるようになりました。そのときにイメージされる『社会課題』は、社会という日常で使われる言葉に引っ張られて、より広い抽象的な意味での社会における課題を想定されているように思います。
しかし、語源をたどってみれば、本来であればより小さな「社会」における課題も立派な社会課題です。それに学生たちが実感できる「社会」は発達段階によって異なるように思います。たとえば以下のようなものです。
発達段階 |
社会の枠 |
小学生 低学年 |
家族、親族、友達 |
小学生 高学年 |
学級、学校 |
中学生 |
学校、部活 |
高校 |
地域(広域)、インターネット |
大学 |
日本、世界、学問 |
社会人 |
会社、市場、世界 |
たとえば小学生が、自分たちの学級という社会の課題を何らかの方法で解決したり、学校という社会の課題を、ルール(校則)を変えるよう働きかけて解決するのも、この意味においては立派な「社会課題」の解決だと言えます。
アントレプレナーシップ教育で社会課題の解決を促そうとしたときにやるべきなのは、それぞれの学生が認識する「社会」に合わせた、実感のある「社会課題」の解決の経験と、少しだけストレッチした、次の発達段階での「社会」に目を向けてもらうことではないかと考えています。
逆に、小学生に「社会課題を解決しよう」と言い、ビジネス(市場)や世界の課題を解決をさせようとして、SDGs などに貢献するものを考えてもらおうとすると、本人たちに実感のない「社会」の課題を解決を促すことになります。
それには、「より大きな社会」に目を向ける効果はあると思いますが、そもそもの「社会」というものの認識から説明する必要が出てきてしまいます。そして認識や実感のないまま社会課題解決に挑もうとすると、ニュース等で見聞きした表層的な課題を持ってきてしまう傾向にあるように思います。
そして抽象的な社会における課題になればなるほど解決が難しいので、「課題を解決した」という達成経験を得ることはできません。そうすると、多くの人は自己効力感を得られませんし、学びが乏しくなるのではと思います。
「何を教育目的にするか」次第ですが、資質・能力を伸ばすことが目的の場合は、学生の発達段階と「社会」の認識に合わせて、身近で実感のある「社会」の課題解決から始め、学生の皆さんが達成経験を得やすい環境を作り、自己効力感を養ってもらいながら、次第に(もしくは時折)市場や広い意味での社会の課題に目を向けてもらう、そうしたほうが社会課題の解決に興味を持つ学生も増えるのではないかと思っています。